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zoom RSS 神観研究 ― 「超越/内在」、「人格/非人格」 ―

<<   作成日時 : 2017/05/30 01:50  

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聖書的神観として最も重要な点は、「神(=ヤハウェ)」は基本的に超越者であり絶対他者であるということだ。すなわち被造物である自然界の外におられるのであり、そこを「天」と言い表す。これは単に上空ないしは宇宙空間ということではなく、そのような全被造界を「超越」していることを示す。しかし聖書には「神(=ヤハウェ)」の「内在」とか「遍在」について示されていることも事実だ。問題はその解釈であり、前者は「超越的内在」とでも言おうか、つまり「われわれは神の内に生き」ているので、われわれの内にも「神」御自身ではないにせよ、その神の霊が入ってくると言える。この「神」と「(神の)霊」との区別をつけない人は、「神」がわれわれの内に存在する(=内在する)と言う。その場合の「内在」は、われわれの人体に閉じこもるということではなく、当人を超えた自由自在における「内在」であるから、物理的意味と区別する上でも「超越的」を付ける。

ちなみに佐藤研氏は「『神』観の変化」に関して傾聴に値することを述べておられる。
(以下、引用開始)
坐禅のようなものはキリスト教の伝統の中にもある、という人もいます。正確には当たりません。キリスト教は、これまでどの教派においても、信者が己の身体と呼吸とに存在を完全に任せて、己と世界の本質に参与するという道をとったことは一度もありません。むしろそうした方向は厳に禁じてきたと言えるでしょう。しかしその結果、現代に至ると、結局は自己の霊的な泉すらが枯渇するのを覚えるに至った、というのが一つの実情でしょう。坐禅は今、そうした欠乏意識を持った世界のキリスト教徒に広く受容されるに至った、と言えると思います。そもそも西洋キリスト教というのは、西洋の精神的刻印を受けて自己確立をしてきました。したがって、第一に、極めて論理的・知的な宗教です。キリスト教「神学」はその証しです。しかるに、その知的言語の表象は、基本的に四、五世紀のものが変化せずに現代に伝えられています(いわゆる種々の「信条」等)。つまり、神話的な前時代的表象と、研ぎ澄まされた知的現代的な論理性が同居させられているのです。既にここからして、十全に円滑な精神的展開が可能かどうか、怪しくなります。さらに第二に、この特質と同時に、西洋キリスト教は「神と人間」、「絶対と相対」を質的に峻別する宗教です。それを無視する考えを「異端」として排除・弾圧してきました。しかし、この二元論でやる限り、「神」は人間に結局は抑圧的に関わってきますし、人間も神への基本的な反逆を常時潜ませています。「和解」などと言ってもそう簡単ではなく、それを「贖罪」だとか「信仰義認」だとか言って神学的に跡づけても、あまり実感としてハッピーにならないのです。つまり、以上の二つの西洋的前提が実はもはや機能しなくなった、ということを多くの人が肌で感じ出しているのです。真の人間の深層現実は理論や言語で接近・獲得できるものではなく、何かこれまでとは異なった「体験」的次元が必須であること、また、神と人間の「二元論」には傲慢な人間を抑え込む効果は若干予測できるとしても、本当の真実はそれを超える「一元」の世界にあるのではないか、と多数の人が予感し始めたのです。そうした感じ方を後押しするものとして、現在の西洋に広く浸透している、一種の「終末論」的事態を挙げておきます。結局、20世紀の二つの世界大戦を経て、ここまで来てしまったのでしょう。「このままではもう先が見えている」という感覚、文化的・宗教的な「いき詰まり」に達してしまったという感覚、それを打破するには、今までの西洋的精神の大前提から何らかの飛躍が必要だ、それなしには生きて行けないという感覚――そうしたものが至る所に潜んでいます。ドイツなどはそれが最も鮮明です。ところが、坐禅の世界に参入すると、キリスト教徒であっても、ものの見方が大きく変貌して行きます。単にこれまでの欠けたところを補う、というのでは終わらなくなります。(だからこそ伝統的な人々からは極度に警戒されるのでしょう。)その際の最大の変化は、「神」観の変化です。先ほども言いました、本質的に自己に二元論的に相対する、いわば超越者・審判者としての「神」という面が脱落するか、弱体化するのです。「神」とは自分の本質の別名、という理解に接近し、さらに体験的に一線を越えると、その生々しい事実をまじまじと体験することになります。そうすることによって、理解を超えた、ある根源的な平安にたどり着くのです。これは、知的論理的な構築を行う「神学」がどのような言語を尽くしても、与えることができないものです。しかし、禅の体験を通せば自明の事実となります。だからこそ、世界の多くのキリスト教徒が、現在坐禅によって、そのような「腑に落ちる」安寧――その深浅の差や強度の差はあれ――を見出だそうとしているのでしょう。これは、底なしの終末論的不安が支配している現代および現代のキリスト教において、やはり刮目すべきことではないでしょうか。この点で一番「遅れている」地域の一つは、日本だと思います。日本では、「坐禅」を学ぶなぞ、「異教」の仏教に頭を下げることになるので、どうしても受け入れるわけにはいかないのです。事実、私自身がそうでした。つまり、私は禅に出会うまでは、禅とか仏教とかをどこか原則的に軽蔑していました。そこから本当に学ぶものがある、などと思ってもみなかった。しかしその私が、ヨーロッパに留学し、その滞在先のスイスで奇妙な挑戦を受ける羽目になったのです。「お前は日本人でキリスト教神学をやっているというが、お前の国の文化に長らく存在していた禅に関してお前は何も知らない。ましてや、その禅が今ヨーロッパでどう展開しているかに関しては、まったく無知でしかない」と批判されて、ムッとしたのです。そこでモノは試しということで、禅を行じるカトリックのドイツ人神父が主催する禅接心(数日間の集中的坐禅期間)に出かけたのです。そしてその神父――日本名を愛宮真備(えのみや・まきび)、本名をフーゴー・ラサールという神父――と出会って、これまでの意見と観念が見事に覆されたのです。これは何ものかだ、と思いました。しかしそれは同時に、これまでのキリスト教神学に対する根源的な脱構築の始まりでした。当初はたいへん苦渋に満ちた過程でしたが、今ではこうなって実に良かったと思っています。そこから改めて日本の状況を考えてみると、これまでの150年間、日本のキリスト教が追いかけてきたのは、ほぼ常に伝統的な西洋キリスト教とその神学だったことがわかります。しかし、この伝統的な西洋キリスト教が実は今巨大な地滑りを経験し始めているのです。そのキリスト教が、草の根的に、日本では考えたくもないような飛躍を――坐禅の導入と活性化とその新しい意味づけを――真剣にやり始め、やがて半世紀になろうとしているのです。これには、日本のキリスト教界は未だにほとんど注意を払っていません。
(以上、引用終わり)
http://hyakunincho-church.com/6column/syoshi/hncc-199sato.html
私は、以上の佐藤氏の見解を尊重はするが、同意することはない。なぜなら私自身、人生において体験的、理屈抜きに絶対者なる「神」の存在を切実に要請しているからである。ただ、対人関係であれ対神関係であれ、自分にとっての生の現実であることは否定できないが、自分の自由が第一なので、遠い方がいいという感じなのだ。
ところで、たまたまネットを検索していたら、以下のような「神」の分類を見つけた。サイト名は「ほそかわ・かずひこの<オピニオン・サイト>」であり、その「宗教、そして神とは何か」の「3.神の分類 」)。
(1)人間神、(2)自然神、(3)宇宙神、(4)超越神、(5)理力神
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion11d.htm
上記の分類は正式な宗教学的見識ではなく、すくなくとも「(5)理力神」というのは、このサイトの管理者である独学者の細川一彦氏の造語。しかし私自身も独学者であり、専門家でなくても他者の参考になり得る情報を発信できると思っているので、上記の分類もここに引用した。「理力神」と言うより「原理神」と言う方が(大差ないかも知れぬが)なんぼかわかりやすかろう。たとえば、いわゆるウパニシャッドにおいてブラフマーは、宇宙の最高原理とされるブラフマンの擬人神であり、それを分類では「原理神」と言える。
いずれにせよ私は、「神」観については、「超越と内在」と「人格と非人格」という二つの区別で把握してゆくことが必要だと思う。そして、日本的宗教の「神(々)」は、大体、「内在」と「非人格」の方に重きが置かれているように感じられる。その典型が自然宗教の神社神道である。こちらは上記の(1)、(2)の両方を含むが、(1)は人格神とは言えない。人間が神なのだからまさしく人格神だろうと思われがちだが、宗教における人格神というのは絶対的無限者であって、人間の如き相対的有限者を意味しない。人格神における人格というのはあくまで比喩なのだ。
また、生長の家で説いている神は“超越的内在神”であるといわれるが(http://inri2009.at.webry.info/201604/article_6.html)、その実は「内在」の方に重きが置かれる「内在的超越神」であるように、既成宗教の系統に属さない「諸教」の神霊教の如き「理力神」観を採る宗教において、神に人格的な面と非人格的な面の両面があると言っても、重きは非人格的な方であるから「非人格的人格神」ということになる。
「神霊教は、『神の霊の教え』という名前が示すように、神を信仰します。 神といっても、八百万(やおよろず)の神ではありません。 宇宙の根本理法であり、また万物を生成させている原動力のことを、 神霊教では“神”と仰いでいます。 “神”を別の言葉で言い換えると、真理のことです。」(〜神霊教HPの「概要」http://srk.info/sinreikyo/)とあるが、「宇宙の根本的な原理にして、万有一切を生ぜしめる原動力」(〜ほそかわ氏の上掲サイトの「理力神」の定義を参照)という定義に、その「宇宙の根本理法」とか「原動力」とか「真理」ということが一致するとしたら、神霊教の「神」は「理力神」に分類されると言える。そしてこのような「神」は「超越」とか「内在」とかいった区別を突き抜けている。この世の神羅万象を司っているからだ。単に「内在神」とは言い切れないが、けっして「超越神」ではない。その点では(4)と(5)との峻別は妥当。しかし理力神は汎神論の神とは言えない、(1)〜(3)が汎神論的神である。
ところで、「超越的内在神」という場合はその「内在」するのは「神」御本体ではなく「(神の)霊」であると考えて然りである。

なお、大本教とイスラム教との比較に関して、「単一神教」と「唯一神教」との違いについての解説は「『八百万一神教』‐大本教の神思想について - 」と題された川島堅二氏の論文を参照。下に主旨説明の部分を引用する。
(以下、引用開始)
教派神道系の新宗教である大本教の祭壇には、中央に3つのお宮が設置されている。中 心神格である大本皇大神と、二大教祖の出口直(1837-1918)及び出口王仁三郎(1871-1948) に憑ったとされる国常立尊及び豊雲野尊を祀るお宮である。神殿によっては、さらに祖霊を祀るお宮と土地の神を祀るお宮が配される。例えば、宗教法人大本の東京本部のある東光苑は上野の不忍池の畔にあるが、土地の神である市杵島姫命が祀られており、月次祭では、大本皇大神への礼拝と共に必ず市杵島姫命への礼拝が行われる。このような信仰のあ り方は明らかに多神教的といってよいだろう。 他方で、大本教には古くからイスラムとの交流が認められる。1924 年(大正 13 年)に 日本人イスラム教徒の公文直太郎が、大本の本部、京都綾部へ参拝したのを嚆矢とし、この時、公文は「大本と帯属の誓いを結びます」と述べたという。さらに翌年には、イスラム教徒田中逸平がやはり参綾し「大本の教えとイスラムとは霊犀相通ずる」ものがあると 述べたという。近年では、1990 年(平成 2 年)11 月にシリアのグランド・ムフティ(イス ラム法勧告最高資格者)の S.A.クフタロが来日、綾部・亀岡で参拝、講演、対話を行って いる。翌年の 5 月には大本の幹部 2 名が、シリアに招待されると共に、イスラムの聖地メ ッカ・メディナへの巡礼を果たしている。その折にクフタロは「大本は日本のイスラム、 イスラムはシリアの大本」と述べている。 明らかに多神教的信仰形態を有する大本教が、多神教を最も忌避するイスラムとこのような交流の歴史を刻むことができたのはなぜなのか。これが大本教に関心を持った動機であった。この発表においては、このような大本教の神観念、神思想をマックス・ミュラーの類型論で「多神教」と「唯一神教」の中間に存する「単一神教」として位置づけ、さら に H.R.ニーバーの単一神教論の社会倫理的側面を批判的に参照することにより、大本教の 神思想の持つ固有性を示してみたい。(発表題の「八百万一神教」は、大本教の神思想が、ミュラー及びニーバーの「単一神教」という類型では十分に評価できない内容を持つこと を示している。)
(以上、引用終わり)

大本教もいちおう創造神を信仰する体裁にはなっている。しかし神道系新宗教では創造神信仰は珍しいことではない。真光教団も同様である。
「神は大宇宙そのもの、また大宇宙のすべてのものを創造されたのですから、私たち人間一人ひとり、小さくは細胞の一つひとつまで、また私たちの周りの草や木、山や川など動物、植物、鉱物一切、大きくは地球、太陽、また私たちの肉眼では見えない星にいたるまで、無限に広がる大宇宙すべてを創造され、守り、生かしておられるご存在です。(中略)神が創造された世界は、この物質的な世界だけでなく、目に見えない心の世界、私たちの死後の世界など、人間心では到底計り知れない霊的な世界をも創造され、守り育てておられるのです。」(〜「大本の教え」http://www.oomoto.or.jp/japanese/teachings/index.html
「信仰している神様は何ですか。宇宙創造の神様で、『御親元主真光大御神様(み-おや-もと-す-ま-ひかり-おお-み-かみさま)』または『主(ス)の神様』とお称え申し上げています。各宗教で創造神としてお称え申し上げている神様と同様の神様ですから、世界真光文明教団は宗門宗派を越え、宗教の垣根をとりはらい、活動しています。」(〜「世界真光文明教団」の「Q&A」http://www.mahikari.or.jp/contents04.html#qa03
「私たちの神向(信仰)申し上げる神様は、宇宙創造天地創造の主神(ぬしがみ)様であります。正式には『御親元主真光大御神様』とご称名し、お親しくは『主(ス)の大御神様』『主神様(スしんさま)』と申し上げております。」(〜「崇教真光」の「崇教真光について」http://www.sukyomahikari.or.jp/information/index.html
「天保9年(1838年)10月26日、41歳のみきは、神の啓示(おつげ)を受けます。みきの体に、世界と人間を創造した神様である親神・天理王命が入(い)り込んだのです。以来、教祖(おやさま)は人々に教えを説き、自ら身をもって人をたすける手本を示します。その手始めとして、近隣の貧しい人々に家財を施し、貧に落ちきる道を歩んでいきました。」(〜「TENRIKYOU」の「信仰となりたち」http://www.tenrikyo.or.jp/jpn/tenri/foundation/
これらはたしかに創造神信仰を表明しているが、天理教の「世界と人間を創造した神様である親神・天理王命が入(い)り込んだのです。」という文言に典型的にみられるとおり、超越神は同時に内在神なのであり、同じ創造神とは言え、聖書が示す「神」のような超越的創造者ではない。聖書一神教の神観は「超越>内在」・「人格>非人格」で、「内在」と「非人格」の両面は「神の霊」(=神の働き,活動力)。
大本教も「超越」神観を表す一方で「神懸り、神憑り」を説く。その点では「内在」神観である。つまり、いかに「超越神」の体裁をとっても教祖の「神がかり」を特別な「啓示」とし、そこに原点を置く以上、「内在>超越」・「霊>人格」であり、実態は内在主義的霊媒宗教なのだ。これが多神教的・汎神論的な日本宗教の特性だとも言える。しかし似たような傾向は、八木誠一氏の指摘にもあるとおり、ギリシャ語圏にもあり、それが場所論的神学で取りあげられる新約聖書の「類型Bの神学」とも重なる箇所として部分的に反映している。しかし東方神学ならではの「相互内在」(ペリコレーシス)は日本の神道系宗教の教義に見られるだろうか?いずれにせよ「超越」より「内在」の方に重きを置く宗教は人間神格化に陥りやすい。西洋ではこのような宗教傾向を一般的には神秘主義と一括する。キリスト教もギリシャ教父の段階でイエスを神格化した。イエス自身、福音書から察せられる限りにおいては、「神=ヤハウェ」を幼児語で「アッバ」などと呼んだり、よく一人っきりで祈ったことから、神秘主義的ユダヤ教徒であった可能性がある。イエスを「真に人」であると同時に「真に神」であると規定したカルケドン信条が(その真意は八木誠一氏の指摘のとおり実体論的ではなかったとしても定式の表面的理解としては)日本の絶対主義的天皇制につながっている可能性は否定できない。なぜなら平田篤胤以来、国学者はキリスト教の教義を学習していたからだ。そこであらためて想起すべきは、無教会指導者の矢内原忠雄による本居宣長の神観に対する批判である。
「神としての必要な特質の一つは絶対といふことである。即ち絶対神といふ考へであります。(中略)宗教の最高発展形態たる一神教に於いては、神といふ以上それは絶対者でなければならない。絶対最高唯一といふことは神の神たるに必要な本質であります。宣長に於てその信仰がありません。絶対者最高者従つて唯一者としての神観がないのであります。といふのは、彼にありては神と人との本質的区別が明かでないからであります。(中略)もう一つ言はなければならないことは、人格者としての神、即ち人格神の観念が宣長にありません。神は単なる自然物若しくは自然力でなく、又世界精神といふやうな理念でもなく、産霊の働きをするところの活きて働く実在であるといふならば、それは人格的存在でなければならない筈である。宣長の見た神は儒家のいふ陰陽の理の如き単なる観念ではなく、生きて働く霊的実在であることを、素朴ながら彼は認めてをるのであります。ただ如何にもそれが素朴である。神が万物を生成し、人心に影響を与へ、人の生涯の吉凶禍福を司どるといふのであるならば、それは人格的な存在でなければならない。人格的存在でなければ、人格者たる人に対して働きを有つ事が出来ない。非人格的なものが人格的な人間の心に働きを有つといふならば、それは人の迷信である、作り事である、そら事である。」(『矢内原忠雄全集』〔以下、「全集」と表記〕一九所収「日本精神への反省」〜「日本精神と平和国家」〔岩波書店〕p24〜27)
矢内原氏にとっての「神」はキリスト教正統教義における「三位一体の神」だが、その点を脇に置いてこの文章を読めば、私も大いに共感できる。 野呂芳男氏は、以下のとおり「神」について「絶対」を言うのは哲学であって神学ではないといった単純な分け方で論じているが、それによって野呂氏は「神」をプロセス神学と同様に有限なる存在にしてしまっている。これでは観念論との批判は避け得まい。
「人間が求める神は真・善・美への憧れを十分に満たしてくれる究極的な存在者であって、絶対的なものではないのである。絶対という哲学的なものを神とすれば、その神は、そこからすべてのものが出てきて、またそこへ帰る場なのであるから、その神は善も産出するが悪も産出する。つまり、その神は善悪混合である。(中略)哲学的に絶対とか無とかいう言葉で表現されているものは神ではなく、そこで神や人間やその他の存在が生きて、真・善・美を求めて苦闘する場であると、私は考えているのであるが、これは教会教父たちの贖罪論に見られる二元論に近い発想である。」(〜野呂芳男著『キリスト教の本質』所収「究極的なものと絶対的なもの」)

神道の専門家が、「神道の神は全知全能ではない。それとは反対の、絶対とは反対の相対的存在」だとか、「明治になって神道が仏教を排除し、一本立ちになってから、人を神とする神社が非常に多くなってきております。人間を神に祀るということが、何か非常に合理的な感じがするようになって来たのは、とにかく明治以後のことです。」とか、「キリスト教の神という言葉を翻訳する時には別の言葉を使ってもらい、神道の神とは別だということがわかるようにすべきだった」とか、「キリスト教では人間の他に神がある、我々とは違ったものが神だと主張します。そうでなくて、神道では全てのものが、神である。」とか、「神道は初めから神に関する教義のある宗教ではない」とか、「キリスト教の説くような全知全能の神は神道にはありません」とか、「私は天皇を神として尊ぶ人の考え方は、必ずしもキリスト教の神の如き絶対者を考えてはいないと思います。」とか、「天皇が現つ神であるとか、現人神であるとかいうのは上代にあった考え方で、それを明治の時代になってから強調した人がいた」とか、「天皇を絶対神であると、人が信じこんでしまっていると戦争中のあのようなことが起ってくる」とか、色々言っておられる(〜『神観の研究』〔創文社〕所収の、小野祖教氏の講演録「神道と神々」)。いかに、日本の「神」の原義が「相対的存在」であろうと、現実に天皇は「絶対的存在」としての意味において「現人神」とされ、だからこそ昭和天皇ご自身、神とされることを迷惑だと言われたし、戦後に人間宣言をしないければならないようなことになったのである。こうした絶対主義天皇制のもとで国民が命を奪われたのであるから、日本の「神」は「God」とは意味が違いからと国家神道を「日本の生きる知恵」だったなどと擁護する小田切信男氏のような発言は斥けられて然り。あくまでも戦争の結果としての悲惨極まりなき現実を直視すべきだ!「天皇とキリストとどちらが偉いか?」などという問いは愚問である。どちらも絶対者として神格化された人間であり、その偉さを比べる基準など相対的にしかあり得ないからだ。真に偉大なるお方はキリストの父なる「神」(ヨハネ福音書14:28)のみ。

そもそも「神」という訳語が「超越神」には合わないのであって、いろんな人が指摘しているとおりGod(=セオス/デウス)の訳語に「神」を選んだことの罪はあまりに大きい。「『神』はもともと中国語で、人間の霊魂とだいたい等しいような意味をもっていた。(中略)普通に言う『神』に相当するものは、中国語では『帝』で表わされた。」(〜『新しい神観の研究』〔星雲社〕72頁)
聖書神観にも「内在」はあり「遍在」もあるが、我々日本人の聖書一神教徒にとってはこのような日本の神道系宗教の神観と区別するためにも、「神」御自身は絶対超越者として「内在」も「遍在」もせず、それをするのはあくまでも「神の霊」である、というJW的見解に立つことに意義がある。「神」と「霊」との関係を曖昧にした日本的「神霊」観は不健全なる神観である。ただし、私は聖書に示された「神」が汎内在神ならぬ汎外包神であるとの観方も持つので、この宇宙全体(が「神」だというのは上記の「宇宙神」観であってこれは誤り)の中の被造物以外は「神」であると考える。その場合の「神」は、天地に充満する「神の霊」の総和であり、そこでの認識には「全体は部分の総和にまさる」というアリストテレスの言葉が適用される。
ちなみに小田垣雅也氏は、「汎在神論の教えるところによれば、対象とはもともと汎神論的である。汎神論は、あらゆるものの中に神を見る。その神々は同一水準に並んだものである。山の神も、木の神も、水の神もいる。世の中に神々は、対象として沢山いる。対象的思考とは、もともとそういうものだ。一方、汎在神論は、すべてを包むものとしての唯一の神を考える。その神は、人間を含むすべてのものを含むのだから、人間の思考の対象にはならない。それは超・対象論理的な神で、対象論理的に、つまり汎神論的に考えた一つの神を、絶対視するのではない。具体的歴史内での啓示を神とするのであり、それは汎神論的意味での神ではない。」(〜説教「インマヌエル」)と述べている。このような理解には、私の「汎包神論」との共通点もあるが、「神とは、対立を超えた全体なるもの、すべてを包括した自然なるもの、有―無の対立をこえた絶対無なるもの、だから対象認識的客観的事柄ではないという意味で人格なる者」(〜同上)という理解は、宗教の民衆的側面や「神」御自身の自己限定による「啓示」の具体性・イメージ性といったことへの考慮を欠き、小田垣氏特有の理詰めの思考が表れている。

それはともかく、別サイトに出ていた、出口王仁三郎が言い出したとされる「ス神」というのは「主神」の「主」を「ス」と読んだためかどうかは知らないが、神名としてはサイテー!
また、大本教は「三大学則の三カ条を拝しながら、神の霊・力・体について思考してみたいと思います。」・・・「《 天地の真象を観察して真神の体を思考すべし 》」などと書きながら、その「真神の体」たるものが何かがよく伝わってこない。「極大の世界から極微の世界までを創造し、秩序・法則をもって生かしはぐくんでいる無限絶対のご存在が神なのです。」という結語は、「神の体」ではなく「神のはたらき」を示すものでしかない。
ところで、出口王仁三郎が、組合派の丹陽教会とかいう教会の牧師に入信相談をしたというエピソードには笑えた。結局、なんでもアリか?大本教など神道系の新興宗教の教義は非常にうさん臭い。「幸福の科学」もそうだが迷信深くオカルト色も強く、なんでも混ぜ合わせればいいというものではない。何より「霊言」のナンセンスさと教祖の神格化があまりにバカバカしくて笑いも出ない。
「世界救世教の岡田茂吉開祖は出口王仁三郎さんの右腕とも言われたお弟子さん。日月神示の岡本天明さんは出口王仁三郎さんの娘婿の出口日出麿さんと同郷で、そのよしみで大本教で機関誌の編集長をされていた方で、どちらも大本教弾圧事件で独立の道を歩まれたのです。『ス』の神の元は大本教にあります。」http://kamikotokai-b.jugem.jp/?eid=73
神道系新宗教の如きがいろいろ言ってみたところで、「宗教の最高発展形態たる一神教」から見れば迷信の類にすぎず、バカバカしくてまともに取り合う価値もない。漢字の当て字遊びのようなことも含まれており駄洒落のようなレベルにすぎない。そう、やはり宗教については発展史観で進化論的比喩を用いて考えられて然りだ。文化人類学的相対主義などは無視!キリスト教中心的宗教理解には欠陥が多々あるにせよ、そしてほかでもなくイエスという人間の神格化を前提とする「三位一体」の神論を中心とするキリスト教神学は崩壊されてゆくべきだとしても、こと、「超越」と「人格」に重くを置く、いわゆる人格主義的神学の伝統は聖書一神教の本質として断固、擁護され、つねに個々人の宗教的実存において要請されて然り!カントの道徳のためのいわゆる「要請有神論」が参考になる。しかしカントには自分自身の切実なる対神関係の必要性が感じられない。私が神観を実存的要請として言うのは、人生においてその切実なる必要を感じるからだ。それを感じない人は宗教に縁が無い。
とにかく日本の神道系宗教には品(ひん)が無く教養の低さが露呈している。いくら民衆の宗教とかいってもこれでは恥ずかしい限りだ。何より教典が悪いのだ。教典は聖書に如くはない。今の日本では「神ってる」などというくだらない言葉が流行り、大したこともない技芸への形容として誰にでも使われている。しかもあろうことか国会議員の、それも野党第一党の党首が総理大臣に対して公然とこんな言葉を使う時代である。まさに日本人の宗教的・思想的貧困さが象徴される事例だ。
神懸り宗教は人間神化と紙一重だ。神道系宗教よりかは、神道系にも仏教系にもキリスト教系にも属さない「諸教」に含まれる神霊教の方が、批判的参考対象としてはなんぼかマシだろうか?否!否である。神霊教の職員である細川一彦氏のコメントによれば、神霊教は「大塚教祖を信仰対象とし、実在する神と仰いでいます。」とのこと。すなわち、「宇宙の根本理法にして、万有を生成させている原動力」であることころの神、その神と人とが一体化して出現した救世主と仰いでいるとのことなので、やっぱりねえと思った。「神霊教」という名称からしてなんかうさん臭く感じてはいたのだ。いかに、「大塚教祖は生前、ご自分がこの世を去った後も、霊界からその御力が働く旨を公言されていました。その御言葉の通り、現在も奇蹟は起り続けています。」といっても、個人を神格化してはダメ。人間神化こそ宗教がもたらす弊害の元だからだ。もちろん、この場合の「神」も聖書一神教的意味での絶対者ではなく言わば融通無碍な相対者であるとは思うが、いずれにせよ、教祖であれ何であれ一人の人間を信仰対象とするような宗教はろくなものではない!なおかつ、「大塚教祖は、日本は天皇と国民が親子の情で結ばれた君民一体の国柄であり、国民は皇室を中心に一致団結すべきものと教えています。」とのことで、このような民族主義的思想にも私はなじめない。諸教とは言っても結局、神道系に近い感じだ。
出口直に国常立尊が憑った場合のように、教祖に「憑った」神が「中心となる神」とか「最高神格」として同定されるか否かはともかく、少なくとも信仰・崇拝の対象である存在が人間に憑依するというのだから、そのような憑いたり懸るような「神」は「霊」との区別なき「神霊」であって、聖書神観における「神」のような「超越神」ではない。神懸りと憑依との違いについては下記リンク先などを参照。
https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E3%81%8C%E3%81%8B%E3%82%8A-1292476

ところで、かつて九大の哲学教授だった滝沢克己氏が目の治癒により一時ハマッたという晴明教(現・「新健康協会」)の明主は興味深いことを述べている (滝沢克己協会の略年譜〔http://www.takizawakatsumi.com/〕では、1980年〔71歳〕から「手かざし治療に通い始める(亡くなるまでほぼ毎日)。」と記されている。亡くなったのは1984年〔75歳〕。ちなみに私は、滝沢氏の教え子夫婦から実際に晴明教の手かざし治療には効果がある旨を聞いた憶えはあるが、自分で経験しない限り信用することはできない)。
「神様のため人類のためのみを第一義とし、自己の利害など考えずまっしぐらに進めばいいので、こういう人こそ邪神はどうすることもできないのである。ところが少しうまくゆくと自惚が出る、自分が偉いと思う、この時が危ないのである。ついに野心をもつようになる。それがため自己を偉くみせようとし勢力を得ようとする。実に恐ろしいことである。一度こうなると邪神はますます魂深く入りこみ、ついに占有してしまう。しかも大きい邪神になると相当の霊力を発揮する。もちろん一時的霊力ではあるが、病気を治したり奇跡なども現すから、慢心はいよいよ増長し、ついには何々神の身魂とさえ思わせられ、生神様となってしまうのである。こういう生神様は、世間にたくさんある新宗教の教祖などは、ほとんどこの類である。しかし本当の神様ではないから、ある時期までで没落してしまうのである。ここで注意すべきは、そういう宗教の教祖とか生神様とかいうものの態度を、厳正なる眼をもって見ればよく分かる。その著しい点は、愛の薄いことと、信仰は小乗的戒律的で厳しいとともに、自分のいう事を聞かないと罰があたるとか、自分のグループまたは信仰から抜ければ滅びるとか、生命がないとかいっておどし、離反をくいとめようとする、いわゆる脅迫信仰である。こういう点がいささかでもあれば、それは邪神と断定して間違いないのである。」http://www.shinkenko.jp/mioshie/m-2604.html
この文言の趣旨に限って見れば同類批判として参考になる、すなわち「神」に正邪の二極があるというのではなく、ここで「邪神」というのは「本当の神様ではない」、言わば人間神化あるいは俗人神聖化(=メシア化)の偶像崇拝(=「相対の絶対化」の罪)であり、私見では「世界基督教統一神霊協会」(現・「世界平和統一家庭連合」)の文鮮明氏も「幸福の科学」の大川隆法氏もその一種だといえる。

いっぽう、「すべての地上の宗教は『霊的無知』の状態にあり、霊的事実が全く分かっていない。その意味で、地上には真実を説いている宗教は一つもない。いずれの宗教も人類に間違った教えを説いている。多くの宗教は霊的事実とかけ離れた内容を真理であるかのように見せかけ、人々を騙している。」と断罪するスピリチュアリズムは、「教祖と霊的真理という関係」において新々宗教との本質的違いを説き、幸福の科学や統一協会(=統一教会)に対しても厳しく批判している。当然、教祖である文鮮明氏や大川隆法氏の神格化なりメシア(=メシヤ)化には次のとおり否定的な見解である。
「結局は、大川氏や文氏も人為的・人工的教理を説いたに過ぎないことが分かります。どれほど自分達は霊界でトップであると主張しても、それを実際に認める霊界人は誰ひとりいないのです。・・・幸福の科学と統一教会について結論を言えば、霊界の高級霊で大川氏や文氏の権威を認める者はいないということです。また両氏が主張する、自分達だけが特別であるという立場を認める者もいないということです。」
http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sp/sp-thought4/sp-thought42-01/sp-thought42-01-1.htm
http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/sp_newsletter/spnl_backnumber/spnl-03/spnl-03-1.htm

スピリチュアリズムと「遠くの神」の立場との関連性などについては、「全一者」の「スピリチュアリズムの神観」を参照されたし。
http://inri2009.at.webry.info/201604/article_26.html

ところで、伝統的キリスト教はこうした新宗教やスピリチュアリズムなど所謂「オカルト」の類とみなすものに対して上から目線で、やれ迷信だ、悪霊のしわざだ、などと言ったり、洗脳がどう、マインドコントロールがどう、そして人間神格化ないしは偶像崇拝がどう、とか批判してきたが、そのキリスト教自体、私見ではマインドコントロールと大差ないドグマの刷り込み等があり、また何よりも、イエスというひとりの人間を神格化し礼拝するという、迷信ともとれる偶像崇拝の罪を犯してきた。このキリスト教の自己欺瞞を剔抉し得た代表的思想家が、前述の滝沢克己氏である。これについて以下、引用する。
「滝沢は、キリスト教を手放しで肯定しているわけではない。すなわち彼は、原始キリ スト教以来、キリスト教にはずっと『偶像崇拝』への逸脱の傾向があったとも述べている。では、ここで滝沢がいっている偶像崇拝とは、いったいどのようなものなのか。この点について、滝沢は以下のように述べている。キリスト者の『信仰』によれば、ナザレのイエスは、地上に生まれた現実の人でありながら、『神の独り子(神自身)』でもある。しかしその場合には、すべての人に共通な被造物即創造者の統一 (つまり第一義の接触)と、被造物の世界の内部におけるその表現としての統一(第二義の接触)を、厳密に区別しなくてはならない。この区別を欠くとき、人は、無限 の実体(=神)と有限の様態(=イエス)を混同し、一つの「偶像的権威」を創り出すという。つまり、第一義の接触と第二義の接触を混同し、有限なる人間イエスを、無限の神 と同一視することが、滝沢の考える偶像崇拝なのである。イエスを唯一の神の子とみなし、第二義の接触への「刺戟」以上のものとして「信仰」するのも、彼によれば偶像崇拝である。こうした滝沢の偶像崇拝についての考え方は、神以外のものを崇拝することを拒絶 しているという点では、キリスト教の一般的な偶像崇拝理解と共通する。とはいえ、イエスにおける啓示の唯一性を信じることを、多くのキリスト者は偶像崇拝とは考えない。この点で、滝沢の偶像崇拝についての理解は特徴的である。」(〜杉田俊介氏の論文「戦後の滝沢克己におけるキリスト教と国体思想 ー宗教間対話との関連でー 」 )
そう、クリスチャンはリベラルな信仰的立場の人であっても、ことイエスについては神格化の例外を認める。福音書に描かれているイエスのような偉大な人格の持ち主なら、神格化しても公共の福祉に反することはなかろうとでもいうように、否むしろ、彼を独一無比なる永遠の神のひとり子として高く掲げることが、ヒットラーのような、あるいはその他の悪しき独裁者たちに対抗して第一戒を守ることにつながるかのように思い込むのだ。ここにキリスト教正統主義的独善性の原因があると思う。
杉田氏はこの論稿の注釈で、次のように記しておられる。「滝沢の偶像崇拝解釈は、人間であるイエスを『神の子』として礼拝することを一神教からの逸脱とみなす、イスラーム的な『偶像崇拝』理解に通じるものがあるように思われる。」。
滝沢氏自身の言葉も2つ引用しておく。
「イエスはたしかに、死すべき人、現実的・具体的な一個の人間である。しかし、まさにそのような人間として、かれは神とまったく直接に一である。神から離れて、人間イエスは一瞬も存在しない。(中略)しかしそのことは、人間イエスが何か人間以上のもの、『超自然的』なものだということを意味しない。いなむしろまったく逆である。なぜならこのことはすなわちまた、己れが一個局限された物にすぎない、どんなに高く昇ってもこの地上を離れることができない、かれがそれを認めると否とにかかわらず、人間イエスはけっして主なる神ではない。絶対に、自己自身の脚下に引かれている神人の限界線を超えることはできない、ということにほかならないからである。(中略)のみならず、事実この限界線に即して在ます神と、人間的主体たるイエスのあいだには、絶対に逆にすることのできない一つの関係、根本的・根源的な先後・主従の秩序がある。『わが心とにはあらず・・・・』(マルコ一四・三六他)というイエスの一言がすでに、はっきりとそれを示しているとおり。」(滝沢克己著『聖書のイエスと現代の人間』〔三一書房〕p63〜64)
「ざっくばらんに言うと、何のことはない、イエスというひとりの人を盲目的に救い主(キリスト)と信じ、〈神〉に等しい〈神の子〉と神格化して、 それで通俗的な安心を得る、その安心のために、〈考えるもの〉として 生れてきた人間の大切なつとめをおろそかにするということだけのことです」(〜芝田豊彦氏の論文「滝沢克己における『神の呼びかけ』と『神の似像』 ―S・ヘネッケの導入論文を手がかりに―」)※上記の引用箇所の注釈は「滝沢 1972年、35‒36頁。」 。
まさしく、正統を自認するキリスト教組織は、イエスを神格化したドグマを聖書の真理であるかの如く「神秘」だの「秘義」だのといった言葉を用いて絶対化して人々に刷り込んで思考停止させ、「異端」というレッテル貼りの脅しによりドグマを批判的に検証する作業を封じてきた。

滝沢氏が、前述のように他宗教それも伝統的キリスト教の立場からは御利益宗教などと軽蔑されてきた日本の新興宗教に対して柔軟な態度を示していることは、その是非は別にして注目させられる。この点について以下、再び前掲論文より引用する。
「滝沢の理論構成からすれば、キリスト教・仏教以 外の諸宗教に真理の契機が見出されても不思議はない。実際、滝沢は晩年に、大本の 元幹部で、のちに世界救世教を開いた岡田茂吉をとりあげ、岡田の思想を神人の接触 の観点から論じている。 」(注釈に、「滝沢克己『現代の医療と宗教』創言社、1991年。」 とある。)
それはともかく、私が滝沢克己という人物に一貫性を感じられないのは、滝沢克己協会の略年譜では49歳の時に日本基督教団の教会に入会していることである。教団の教会で洗礼を受けるということは教団の信仰告白を受け容れることを意味する。しかしその「教団信仰告白」は上記のとおり滝沢氏が批判した「偶像崇拝」を前提として成立している。信条としては使徒信条だけであるが、その背後には、イエス・キリストを父なる神と同質であると規定するニカイア信条や、イエス・キリストを「真に神、真に人」という矛盾した定式で規定するカルケドン信条に準拠するという了解がある。そのようなものを滝沢氏が自分自身の信仰内容として認めることができるはずはないのだ。だから滝沢氏の受洗という出来事は私にとっては大いなる謎である。
それではその滝沢氏の神観なり神理解は、冒頭に引用した「『神』の分類」のどれに該当するか?と言えば、より正確には、どれにも該当しないと言うべきだろう。もちろん滝沢氏は福音書に描かれているイエスの「アッバ(=パパ)」という人格神イメージを受け容れてはいただろうが、いわゆる神観としてはその程度止まりであろう。そもそも滝沢氏の神学というか宗教思想において「神」とは、「人」との「(原)関係」においてしかあり得ない。滝沢氏が自論を「神学」ではなく「神人学」と称したことにも「神」の「実体」より「神と人」の「関係」の方に重きを置いていたことが察せられる。滝沢氏の関心は「原点」・「原事実」にあったのであり、まさに「はじめに関係ありき」(M・ブーバー)なのだ。その「(原)関係」から「神」だけを取り出して対象として論じるような、すなわちキリスト教神学における教義学の神論のような形而上学的思弁には滝沢氏は関心なかったのだと思う。ヨハネによる福音書の「はじめに言(ロゴス=キリスト)ありき」も滝沢氏の言う「インマヌエルの原事実」と矛盾しない。実に「イエス・キリスト」が「インマヌエルの原事実」だからだ。あえて滝沢氏の思想に「超越」の契機を見出し得るとすれば、それは「神と人」との関係を「不可分・不可同」だけではなく「不可逆」を加え、これを強調したことである。しかし滝沢氏は「神」のものに対する考察、すなわち「イエス・キリスト」(の御名)における「インマヌエル」の普遍性は説いても、ヘブライ語聖書(・・・「旧約」聖書ではない!)における「ヤハウェ」という固有名における啓示の特殊性への関心と究明を欠いていたがゆえに、良くも悪くも聖書の宗教以外の宗教、それも日本の新興宗教にまで「インマヌエル」を認めるようなことになったのだと思う。やはり聖書にもとづく「神観」はばかにはできない。しかしその「神観」は「脱・キリスト教」的なものであって然りで(→「聖書にもとづく『脱・キリスト教』的神観」)、その意味では滝沢氏の思想も他宗教の教義などと同様、参考にはなる。

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神観研究 ― 「超越/内在」、「人格/非人格」 ― 遠くの神/BIGLOBEウェブリブログ
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